2011年01月

2011年01月26日

寒い

早く家に帰れたのでこたつに入ってごにょごにょしてたら寝てしまっていました。この時期のこたつ寝は一番危険…咽喉がイガラッぽくなってきた。
受験シーズン到来って感じだね!


韓国アイドルが辞める辞めないって話。韓国のプロダクションのヒトが「日本とは違ってアイドルは完成したコンテンツとして売っていくよ!」みたいな事を言っていたのを思い出すと、ギャラの取り分は事務所が9割とか納得いく気もするのです。飯食わせとけばお金を作るアルケミー。ある種儒教っぽいのか?

必然に自爆したようですが、これが自浄だとすると、韓国アイドル戦略はより良い形になるだろうし、もっと日本で売れるようになるよね、きっと。

バンドが売れる余地なんて無い感じです。流行になる必要はないと思うのですけどね…いよいよっていうかさ。


高齢化社会やら少子化と言うけど、高齢社会で減子ですよね。末期感隠すのは何でだ?





"いつかあなたが歌ってくれた悲しいけれど優しい「本気で愛してくれる人がいる だからこそ生きていける」なんて歌"



腱鞘炎と寒さが苦しい。
DSのゾンビゲーム欲しい。今年はソンビ供給激しいけど『ゾンビダイスキ』は時代が僕をいつの間にか追い抜かしていったのか何なのかよく分かりません。


■献身

愛について考える…なんて言っていますが日本にLove, Amour, Liebe…etc.に相当する言葉に愛が設定されてから100年そこらなわけで"I love you."をダイレクトに翻訳できず「月が綺麗ですね。」と表現したなんて逸話もありますよね。文脈の上では間違っていないし素敵です。

生まれながら愛という言葉にさらされていると陳腐な気すらしてきます。愛ってなんやねん。

Love, Amour, Liebeを改めて「愛」と仮定すると、愛の起源として想起されるのは何だろう…と考えると宗教的な意味合いとそうではない人間が持ち合わせたものみたいに聖と俗に分かれるように思うのです。

例えばルネサンスの文献の日本語訳を読んでいて「愛」という言葉が出てくると、古典的愛なのか宗教的愛なのか感情的愛なのかというところで困るわけです。原本に触れることが出来れば一番なのですが、フレキシブルに解釈していかないといけない。

古典的愛と感情的愛は共通する部分が多いのですが、宗教的愛は厳密に定義されているわけであって読み違えると痛いわけです。

あるおっさんが荒野の山で十個の約束事を押し付けられたことを誰も信じなければキリスト教なんて生まれなかったわけですが、旧約聖書による愛とは、神様が「神様を頼る子」「だけ」を守ってあげる、という契約なわけです。もともとは。

「お父さんがお父さんを頼る子だけを守る」というのがモデルだと考えると優しいでしょう。それが最初の愛。

お母さんが子どもを、夫婦がお互いを、というモデルも愛となっていくのだけど「頼る子だけを守る」という限界をブチ破る考えも出てきましょう。
自分から自発的に守ってあげたい…という感情。

新約聖書の時代になると、神様が「誰かを助ける」という行為こそ「愛」なのであって、「契約関係を結んでいなくとも」守ってあげることを実践する「献身」、つまり「慈愛」を行うこと、まるで神様が僕たちにしてくれているように、「隣の人を守ってあげること」が愛であって何に阻まれることもない「愛」が成立されたようです。


それから2011年。

古典的愛や感情的愛と宗教的愛は共存しているわけです。「守りたい」という点においては一致していると。
忘れてはならないのは献身的愛、つまり「慈愛」は神様という前提が無ければ有り得ないわけです。少なくとも宗教的愛という愛はそういうものなわけです。

それは見返りを期待しているということ、そのものなのではないだろうか。神様から守ってもらうには神様のように振舞え、というわけです。それが愛なのだ。

『容疑者Xの献身』を解読するにはこの「見返り」を忘れてはならんよ。


「慈愛」とマリヤの相関には何となくでいいと思います。ただのモチーフです。


■「今届かぬ思いを伝えたい 会いたくて 切なくて しかたないと」

どうしよう、時間がない。




2011年01月25日

悪い良い

やはり人付き合いが破滅的に下手なのでひっそり暮らしているんですが、合わない相手とはホントに調律出来なくて申し訳なさ過ぎる。

好かれようとは思っていないが不快に思われるのはいかんわけで気を遣われるとすぐ分かるし、その瞬間意識と身体が乖離する。


男通しの場合が一番キツい。もうやだ。ホントにやだ。


2011年01月24日

祝・勝ち越し

新世代力士蒼国来栄吉を全力で応援している我々にとっては胃にブラックホールが形成される超重力崩壊Tokyo-First.Fes.だったわけですが、終わり良ければ万事オッケイなわけですよね。高見盛戦。
今年は一つでも勝ち越し決めていく過程で心技体を極めていけばよいのです。

次観戦に行くときは白星希望ですが黒国来は結果的にレアなわけだし、それはそれで。

今日は書きたいことがたくさんありますが相撲の話を少しだけにしておきます。

バチバチを読んでいると幕内力士は修羅や羅刹の類、上位は闘神、横綱に至っては創造の神に思えるくらい中入り後は神々の熱き戦いなのですが、現状はみんなトライアルアンドエラーを繰り返して模索している感じでそこは温かく見守るべきなのだろうですが、今日の白鵬インタビューを見ていると良い意味で"横綱"というオーラが感じられた気がする。

品格や風格ということばは避けたいですが、それらのことばを好んで用いる人達にとっては気持ち良い横綱なんでは無かろうか。
それでも日本人じゃないから認めないというのは最早通用しない話ですよなぁ未だに稀に聞きますが。

ただ白鵬の場合、自らその横綱に自分をフィックスさせているような気もして…土俵入りとか観ると特に。
かっこいいんだけどハラハラしてしまう…。その辺は上手くこなせる人間なのかな。「苦悩すら見せてはならない」品格を求めるのは異常です。今年もやはりハラハラするんだろうな…。

魁皇は春場所に変なプレッシャーを感じて欲しくない…もうボロボロだもん…。でも勝ち越しや!

その他大関陣にも今年は魅せて頂きたい所存です。「大関すげぇ勝てねぇ」みたいな強さ。…難しいところですか。

あと今日の国歌斉唱の冒頭でも未だ叫んでる方々はもう国技館に来ないで欲しい。酸素が無駄だし品性の欠片もない…テレビであんだけ不快だったら現地ではゾッとするやろうね。甚だ気持ちが悪かったです。

実際に観戦したときも色々あったんですが不愉快なので伏せておきます。

なにはともあれご苦労さまでした!


2011年01月23日

Chernobog of Fantasia

こやつがおいしいよ。たまらんよ。


■4D

映画を専用メガネ装着してまで視聴するなどと苦痛でしかないわけですが、作っている側は3Dであろうが無かろうが映画館で視聴されるモノとして映画を製作するわけです。
この辺はあたりきしゃりきな話であって、音楽でも明らかにライブ演奏を意識したものとかすぐに分かるよね。そういう曲は複数人でカラオケに行ったとき歌うとキツい。

映画に話を戻すと、新作でも1000円で買えたりして、というか最近のソフト化は異常に早くて、うーむ。

という風に作ってる側とお金払う側の微妙な軋轢はあって、チネチッタの企画とかチケット値下げの話とかはある種のハザードの萌芽であると言えるのかもしれません。
モノが安くなるというのはそんなに良い話ではない。

ディズニーの新アトラクションが3Dで、アトラクションの展開と共に風が吹いたり水しぶきが飛んできたりするらしくて、エンターテイメント偏向の3Dは非常に面白そうでした。
個人的にディズニーランド行ったことないけど少し行きたくなった。

色々考えると3D映画というものの究極的な帰結は『ファンタジア』の3D化なのではないかと思うわけです。新作ファンタジアでも良いが。音楽は聴覚の空間的広がりがないとありえないし、そこに視覚の空間的広がりが合致するならば、シアター空間の100%利用が期待できるのではないかしら。

『ファンタジア』ブルーレイは4月20日にオリジナルファンタジアとファンタジア2000を合せて発売されるようなので(単品もあるようですが)、買おうと思うわけです。3D化を願って。


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