2012年10月31日

相対的絶交少女ハロウィン

■ヒーロー

まぁみなさん言ってる話だけど。

2011年のライダー映画は、歴代の仮面ライダーが勢揃いした映画というだけでなく、キカイダー、キカイダー02、イナズマン、そしてズバットも参加した「東映のヒーロー映画」という広い枠組みの試みでもあったと思う。

ライダーではないヒーローが出た理由として、「親が、かつて子どもだったときに、それぞれの人にとってのヒーローはそれぞれ違っていたので、それぞれのヒーローを出す狙いがあった」みたいなことが雑誌に書いてあって。

そのおかげでストーリーのクオリティは一段と下がったと思いますが、また一方で、映画としての意義みたいなものはあったのではないだろうかと概括することができるのではないでしょうか。

で、去年のライダー映画にも、ライダーではない東映ヒーローが、キョーダインと鉄人17なんだけど、出演するようになったんですが、僕は観ていないので正確な話ではないかもしれんのですが、敵役なんですよね。

今度のライダー映画にはアクマイザー3が敵役で出るとか。

それぞれの人にとってヒーローであったそれぞれのヒーロー達をヒーローの敵として登場させることのドコに支持するべき理由があるのだろうか。あると思ったのだろうか。


■「またとないいのちを/使い切っていくから」 

勝ちラインというか、「あぁこれはアリですわな」みたいなグルーヴ感が(勘違いだとしても)、何かを作るということには潜在しているのではないかという僕の仮説があるのですが、『閃光少女』(東京事変)の歌詞は全篇にわたって勝ちラインだなと思った。

音楽の歌詞…文学一般…というのは、ことばなので、コミュニケーションとディスコミュニケーションの境界線あたりにまつわるものとして考えれば、もっともでそれらしいことを言えると思うのですが、そういう衒学的な話の向こう側なのよね。

そういう体験、実感を自分の手で掴みたいものであります。





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