2016年07月28日

かたちあるもの

 あしたは『シン・ゴジラ』見に行きますよ!
 …どうやら、29日の00:00公開@新宿というのがあるらしいが…。数時間ネット情報を遮断する必要があるな。


■かたちないもの

 誰かに話をするとき、あるいは誰かの話を聴くとき、最初に、そして最大に気にすることは、その話が「定数的」か「定性的」かということです。

 だいたい「定数的」…定量的であればあるほど、分かりやすいと言われています。

 分かりやすい、理解しやすい、つまり相手を納得させやすいと敢えて言い換えてしまうと、 つまり「定性的」な話というのは、分かりにくい、理解しにくい、相手を納得させ難い話。

 だからこそ、というわけではないですが、分かりにくいし、理解しにくい話だからこそ、相手を納得させ難い話だからこそ、考えることに意味があると思うのですが、どうでしょうか。

 たとえば、自分の話ですが、史学の修論でありながら「親子間における愛情の有無」について論じてしまったので、大変な思いをしたわけです。

 「愛情が無い状態」というのは、つまり「子殺し」や「捨て子」といった現象を手掛かりに、発生件数や地域差などから、限定的ではあるけど、その変容を含めて、論じることができたかなと思います。

 一方、「愛情が有る状態」。これを論じるには、文献史学だけでなくて歴史心理学の立場もとりながら、文学的解釈の妥当性も検討しながら、メインである「子ども史」を考える必要があるのですが、「ある時代より、その数十年後の方が、愛情がより多い」こと論じ、「ある社会的・文化的変容が、"親"の"子ども"への愛情をもたらす」という仮説を証明することは、とても分かりにくい話だと思います。

 その分かりにくい話を、つまり「定性的」な論を、学問するというか…科学的に考えることに意味があるのか、というところまで、議論は進んだ記憶があります。

 自分としては意味があると思って修論を書いたわけですが、たいした結論に至ったとも思いませんけど…そこまでのプロセスは、今の自分にとって、最大の財産になっていると思っています。

 分かりやすい話より、分かりにくい話だからこそ、ひとつひとつ、丁寧に、ときには臆病に、取り組めるのではないか、と思っています。 

 「かたちないもの」に取り組むことは、心を豊かにすること、だと思います。

 「かたちあるもの」に取り組むことは、生きるために必要ですが、定量的なことに偏らないこと、定性的なことに対する無関心を変えていくことこそ、課題な気がします。

 誰の課題かは、さておき。

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